Link :WordPress Blog (新しく製作してるブログ)

【最新】
---------------------------------→

孫子の兵法 - 故用兵之法

歴史の孫子です。プレジデントという雑誌の中に語句が含まれていたので書いてみます。

 

相手に対して十倍の力なら包囲する。
相手に対して五倍の力なら攻撃する。
相手に対して二倍の力なら分断する。
相手に対して互角の力なら最善を尽くす。
相手に対して劣勢の力なら退却します。

 

「孫子」は”戦わずして勝つ”にて有名で、フランスの皇帝ナポレオンも参考にしていたようです。確か百戦百勝するよりも、戦わず勝つほうが優れているという概念ですね。興味はあったのですが、そこまで深くは知らないです。

 

”互角の数なら、勝てる見込みがないと争わない。”最善を尽くすと書いてますが、実際はそういうことです。また、攻撃は防御よりも有効な手段と言っていたかもしれません。時代的背景も多種多様なので、面白いところです!

 

調べてみると、「勝敗は天運に任される」という考えも持っていた。戦局に対し「臨機応変(りんきおうへん)」に柔軟に対応する術もあります。

 

中国春秋時代で紀元前500年とかなり古い。

 

2017.5.17 (4)

 

 

豊臣秀吉と兵糧攻め

太閤記で有名な「豊臣秀吉」について考えました。彼は木下籐吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉と名前をあげています。

 

秀吉は織田家の足軽から出世をしていきますが、その前に”松平家(徳川)”に仕官しています。家来として仕えていたのか、雇われ兵士だったかは曖昧なところです。織田家にて信長の右腕のような地位まで昇り、織田信長が失脚すると天下人を目指します。

 

噂の領域では、織田信長を本能寺で殺害した明智光秀の陰謀を裏で糸を引いていたと聞いたことがあります。秀吉は織田家で出世する中でも珍しく、武勲などをあげて頭(かしら)になるというタイプではなかった。戦国時代においては、戦にて敵将を討ち取るなど武勲をたてることにより報酬を得ることが多い。

 

知略や対話術・人望に長けていたことは明らかです。しかし、織田家に仕えているときには、「殿(しんがり)」という後退する部隊の中で、見方の党首などを逃がすために時間を稼ぐ役割が多かったようです。負け戦などで死ぬ確立の高いポジションになります。そこでさえ、傷を負うことが少ないという秀吉はすごい才の持ち主だと感じます。

 

天下統一に先駆けて利用した戦術が「兵糧攻め」といいます。現代でいえば、補給路を断つ正攻法かもしれませんが、当時は異なります。武田信玄や上杉謙信のような武将では、戦う際に「礼」を用いて戦(いくさ)をします。疲れて弱った相手に「塩を送る」というぐらいです。正々堂々と勝負する武士の生き様があった。それを考慮すると、食べ物を無くし餓死させて勝利する戦略は異例の判断だったと思います。

 

徳川家康と豊臣秀吉の関係は、天下取りの障害となった。身分的に農民の出身ということで、朝廷から官位をもらうケースにおいても不利です。ここで秀吉が天下を取る前に、「徳川」という相手に対して因果があります。農民出身だから”徳川は豊臣に従わない”というだけじゃないのです。織田家に仕える前に、松平(徳川)に居たので、かつての家臣には従えないという話になってきます。

 

「平和のため、戦の無い世界を造るため、どうかお願いします!」と、勢力で上を行く”天下人の秀吉”が頼んだのです。

 

 

2017.5.15

 

徳川家康の人質時代

徳川家康という方は、幼少期に「人質(ひとじち)」として長く過ごしています。人質というのは、外交関係のある武家同士のつながりに関係していて、関係が悪化したり戦(いくさ)になったりすると切り捨てられる。

 

泣いたり叫んだりすることは「死」に繋がる恐れのある事態。常に危険と隣り合わせの精神であったと聞きます。自身の表現するという行為は許されないのです。これが徳川家康の”我慢強さ”に影響したと言われます。

 

彼の歴史を語るには江戸幕府という後世の構図が一歩祭り上げていることがある。しかし、天下を取るにあたっては、その忠義のある家臣団に恵まれたというのはあります。岡崎城主で約140年の譜代からの家臣が多くいた。それは結束が固いというメリットも含めて、裏切りがないという利点があった。織田信長や豊臣秀吉には無かった部分です。それが”粘り強さ”と重なって天下を取ることにつながったといえます。

 

私の関心ごとは、徳川家康という人物がどのように生きたのかです。「生」というものに執着した一面も伺える。年を取った家康は自分で薬を焙じて飲んでいたことは有名で健康維持を欠かせなかった。やはり人質時代に、「耐えることには生きなければいけない」という一面があったのかもしれない。

 

武田信玄の”人は石垣、人は城・・・”のような人材智生を受け継いだようにも感じられます。織田信長を考えた流れで徳川家康について考えてみました。

 

2017.5.12(3)

織田信長と沢彦宗恩

織田信長と沢彦宗恩(たくげんそうおん)という人物。沢彦宗恩は「信長の師匠」といわれた人物で、成人後も参謀などを務めている。彼は、臨済宗の僧侶で各地を旅をして何かを得たようです。信長の師匠ということもあり、”信長”という名前を命名した人でもあります。その他有名なのが、「岐阜」という地域名の現在に由来しています。

 

戦国時代の信長や秀吉、家康を尊敬する人は多いけれど、彼らの師匠というか、”影響のある人物とは?”、誰かということに興味がありました。

 

織田信長という人物は性格に癖(くせ)があります。偽っていたのか、それとも元々の性格なのか。私が知るところによると、母親に”あまり愛されていなく”それが原因のひとつだと聞いたことがあります。幼少期も含めて、弟に愛情が注がれていたのは間違いなく事実であり、家督相続の争いの時にも弟と母が敵に回ります。

 

推論ですが、人間は一定以上の範囲を超えると変化が生じます。たとえば、母の愛を手にしたくて願うが不可能だったりすると、方向性が変わります。「なんとかしなくてはいけない」から「何かを変えてしまわなければならない」になってきます。これが信長の創造性の源のように感じました。

 

”天正4年1月、信長に誼を通じていた波多野家が叛旗を翻した。”

 

そういった事態が起こると、「変えてしまわなければいけない状態」から「変えないと存在意義が消える」となります。そこで絶対許さないという形になっているのです。ここで、沢彦宗恩が現れます。”武有七徳”という礼儀などを含めた戦場の道徳を取り上げたりします。

 

歴史は語ると面白いですね。

 

2017.5.10 (2)

 

1